2年ほど前、[ツェッテルカステン](https://en.wikipedia.org/wiki/Zettelkasten)のまねごとをしてみようと思い立ち、[Obsidian](https://obsidian.md/) というツールを使い始めました。以来、日々のできごとや考えたことを書き記すことを続けています。今では私の思考はだいたい Obsidian の上で行われている、と言ってもよいくらいにすっかり身体に馴染み、それなしの生活は想像できないくらいです。
私の Obsidian は、ノートをつくり、相互にリンクする、そしてときどき検索するくらいの使われ方しかしておらず、そのほとんどの機能は眠ったままです。ライフハックらしい話はまったくなく、ひたすら Mac に文字を溜め込んだにすぎないのですが、それをしばらく続けているうちに、私自身が変化していることに気づきました。主題に注目してそれについて書く構えが次第に崩れ、気まぐれなことしか書かなくなっていった、という感じの変化です。と言ってもこれは、横着をするようになったということではありません。何かに注目するというモードから遠ざかることで、そこで失われていたものを、うまく捉えられるようになったのです。
本を読みはじめるとき、私は本の基本情報を記したノート (ツェッテルカステンのカードに相当) を作成し、著者のノートとリンクさせます。こうすることで、この本にまつわる (Obsidian の中の) できごとと、著者についてのできごととのあいだに経路を用意することができます。これは非常に便利で、誰かとの話題に出てきた、であるとか、その人の言葉を思い出した、といった些細なことを含めてその著者への関心を一望することができるようになります。まさにツェッテルカステンで自分の経験や思考を外部化してみたい、という望みが叶いました。非常に役立ちますし、何より楽しいです。
味をしめた私は、感想ノートも作りました。本を読み進めながら、これは、と思う文をあとで引用するためにメモしたり、そのとき考えたことを残すためのノートです。そして日記のノート (毎日新しく日付をタイトルにしたノートをつくり、そこに何であれ記録しています) から、今日はこの本を読んだ、という意味で感想ノートへのリンクを置く、というスタイルです。こうしておけば、いつでもその本についての自分の反応を振り返ることができるだろう、と期待したのです。しかしこれが続きませんでした。
2年経って定着したスタイルは、日記にそのまま感想や引用を書いてしまう、というものです。本のノートにはリンクしますが、あとはただ思ったことを書くだけ。記録がバラバラになり、ろくに集約する努力もしないことで、見えづらくなってしまうかと言えばそうではありません。むしろ、本の被リンクとしてそれを読んでいた日々の日記がずらっと並ぶ構造を得ることができます。被リンクを辿る経験がさらに日記に記録されると、その本についての体験が、幾層にも積み上がっていきます。ここから得られる豊かさは、ここには書き切れません。Obsidian を使い始めた当初、この構造の面白さを知らなかった私は、そうすることができなかったのです。
これは私にとって、「本を読む私は、その本についての感想を持っている」という捉え方を打ち砕かれるような体験でした。私自身が、その本についての感想の主でいることができなくなった、と言うこともできるでしょうか。Obsidian を使うことは、念じたものであれば何であれ (ノートとして) 実体化できるような体験です。気をよくしてつくった「感想ノート」が次第に疎ましくなり、実際には何らかの思い込みがそうさせていたということが、何ヶ月後かにわかってくるのです。
感想ノートが楽しくなくなる一方で、私が本と触れた日々のノートに書かれるそのときどきの感覚、思考は、その日の別のできごとと呼応しあって存在しているということが、この構造を辿ることで、はっきりと感じられるようになりました。そのとき本は、私の人生 (積み上がった日記ノート) の全体像へ影響を与えるパラメータのひとつ、あるいは私個人の内的な宇宙に漂うひとつの重力のように見えてきます。Obsidian はそれをそのまま可視化してくれました (私の気に入っている数少ない Obsidian のギミックに、[ノートのリンク関係を Force-directed graph にして表示する機能](https://help.obsidian.md/plugins/graph)があります。これはノートを銀河のように見せてくれます) 。
読書だけでなく、私の Obsidian で起こることすべてが、そうなっていきました。誰かとの会話、進めている仕事、音楽を聴くこと、買ったもの、旅行したこと、すべてについて「私の内なる言葉」が変化すると、私の思考のある側面が、以前よりも容易につかめるようになっていきました。ある本についての感想の持ち主である私、といったような類いのフレームを、私自身が私に課すことを「やめる」ことができるようになっていったのでしょう。そして私は、もともとそこにあったものをつかむことができるようになりました。
Project Theory Probe Journal の各号が、「その月そうであった」という記録の形をとっていることは、私の日記ノートが、テーマをもたないその日の記録であることと似ているようです。最近 Project Theory Probe Journal の各連載が過去の記事を参照することが増えている様子も、まるで Obsidian のノートの相互リンクです。そのときそうであった、という記録であることが、あとから新しい意味を読み取るための、接続の余地をつくっているのでしょう。