アンクル・ボブの愛称で親しまれているロバート・C・マーティン。彼が普及に尽力してきたソフトウェア開発の知見は、オブジェクト指向プログラミング、テスト駆動開発などの手法から、開発者としてのマインドセットであるソフトウェアクラフトマンシップまで、アジャイルと総括される潮流の背骨を形成している。90年代から現在まで、そのユーモアと本質を精緻に描き出す明晰さによって、コンサルタントとして、著述家として、企業経営者として、ソフトウェア開発の世界に大きな影響力を持ち続けてきた。なかでも2001年のスノーバード・ミーティングの主催は、コミュニティがアジャイルに目覚めるための機会をもたらした、ソフトウェア開発史上有数のエピソードである。 しかしロバート・C・マーティンもまた、その後の「アジャイル」に失望し、原点回帰を呼びかける古参の一人になった。その懸念の中心は、アジャイルを実践する上でのエンジニアリング能力の軽視、とりわけ内部品質に対する無理解にある。技術不遇の時代の到来を予感したロバート・C・マーティンは、2009年にアジャイルマニフェストの続編とも言える Manifesto for Software Craftsmanship を提案し、クラフトマンシップの復権によってその危機を回避しようと試みている。しかしアンクル・ボブの呼びかけをもってしても、時代の行く末を変えることはできなかった。 失望の期間を経て、2019年には「クリーンアジャイル 基本に立ち戻れ」(KADOKAWA) が書かれている。そこでは、ケント・ベックのエクストリームプログラミングを軸として、アジャイルを技術史の中に再定義し、それを体現する者を真のプロフェッショナルとして持ち上げることが試みられている。いわばアジャイルマニフェストとクラフトマンシップの融合であるが、そこで「立ち戻る」べき原点として力を込めて紹介されるのは、[[サークルオブライフ]]と呼ばれるシンプルな円環の図である。 [[サークルオブライフ]]は、アジャイルの基礎的なフィードバックループ (定義する、見積る、選択する、作る) を表現している。2001年に出版された「XPエクストリームプログラミング導入編 - XP実践の手引き (The XP Series)」(ピアソン・エデュケーション/桐原書店) で、プロジェクトを「運転」する例えの中で提案された。10年後、「導入編」の著者のひとりであるロン・ジェフリーズは、循環を内側に2つ追加し、3重になった図をブログに掲載した。ロバート・C・マーティンが引用しているのは、この2011年版である。 新しい[[サークルオブライフ]]の3つの循環は、外側から順に、ビジネスのため、チームのため、エンジニアリングのためのプラクティスに対応している。初期のアジャイルは、ビジネスとの境界に注目していたことがわかる。そして普及と誤解の時代を経て自覚された「忘れ去られたアジャイル」は、もっとも内側の循環 (テスト駆動開発、リファクタリング、シンプルな設計、ペアプログラミング) に対応するだろう。 ロバート・C・マーティンは、ソフトウェアを書くことの社会的影響力の大きさと、その責任を職業人として引き受けることによってもたらされる、人生の喜びについても語っている。使命感に満ち、[[サークルオブライフ]]の循環を内面化し、技術的に洗練された、職業人としてのソフトウェア開発者は、「ビジネスと開発の断絶を修復する」アジャイルの夢を再び託されようとしている。その大きな期待に応えるためにソフトウェアコミュニティが頼りにできるのは、エクストリームプログラミングを育んだ90年代の開発現場と、そこに息づいていた素朴な佇まいのハッカー文化だろう。アンクル・ボブはいまも、その価値がより大きな存在として目覚めようとする傍らで、励ましを続けている。 [[Robert C. Martin]]