若き日のケント・ベックが建築家を志す学生たちと同じ寮に住んだという偶然によって、ソフトウェアの世界に登場した[[Christopher Alexander|クリストファー・アレグザンダー]]。その思想は、業界の顔役であるところのギャング・オブ・フォー (エリック・ガンマ、ジョン・ブリシディース、ラルフ・ジョンソン、リチャード・ヘルム) の手によって、のちに古典となる「オブジェクト指向における再利用のためのデザインパターン」(ソフトバンククリエイティブ) を通して、コミュニティの精神の奥深くに受容されることになった。数多の[[ハッカー文化の伝道師|伝道師たち]]を伝承の旅へと出発させる始まりの地点には、建築の世界からやってきたものづくりの精神があった。それは、ハッカー文化が自らの存在とその使命に目覚めるための、鏡だった。
[[Christopher Alexander|クリストファー・アレグザンダー]]は建築家であり、「パタン・ランゲージ」として知られる設計理論の提唱者である。1993年に書かれた「時を超えた建設の道」(鹿島出版会) には、新時代を担うべき設計理論を支える、ものづくり哲学がまとめられている。ソフトウェア・コミュニティはそこで語られる、人工物を自然の中に位置づけ調和させようとする態度、優れた創造はひとりの設計者やひとつの制作物を超えて、人類の共有財産として歴史的に形成されていくという信念、そして、ひとにぎりの権力者による急進的なプロセスを拒否する態度に、大いに共感した。
[[Christopher Alexander|クリストファー・アレグザンダー]]がソフトウェアの世界で受け入れられたのはなぜだろうか。ひとつは、変更や移動を容易にする可塑性の高さ、というソフトウェアそれ自体の特性によるだろう。設計の基礎的な要素としての「パタン」がくり返し発現することで全体が立ち上がるという設計思想は、物理的な損失を意識する必要がないプログラミングの場面では、現場の感覚と自然に一致できる。もうひとつには、ソフトウェアによって形作られるものが、人々の精神生活においてより大きな地位を占める環境が勃興したという歴史的な状況、つまりインターネットとパーソナルコンピュータの普及が挙げられるだろう。ソフトウェアが原子炉や株式市場などの身体的感覚を超越したスケールにのみ適用されていたとすれば、規模や速度を追求するためのいち技術にとどまっていたかも知れない。しかしインターネットとパーソナルコンピュータは個人の精神生活に寄り添う領域にまで普及した。テクノロジーの頂点に生まれたものでありながら、人の身体や精神という自然と親和的に振る舞わなければ機能できないという点で、ソフトウェアの性質は建築や都市に通じる。
[[Christopher Alexander|クリストファー・アレグザンダー]]の描く「マンメイド・ユニバース」の理想は、ソフトウェアによって構築される領域の拡大を背景に、今日の世界において切実に必要で、かつ現実的に目指し得るものになった。しかしその実現は、まだ遙か先にあると言わなければならない。[[Christopher Alexander|クリストファー・アレグザンダー]]は、私たちは自然と一体であり、だからこそ「私たち自身の内面から秩序が生まれてくるようなプロセス」(時を超えた建設の道) に従うことが、平凡だが美しく、人を人らしくさせるものを生み出すための道であり、そのためには思い上がりと恐れを捨てなければならないと説く。作り手だけではない。あらゆる人々の理解と励ましがなければ、それは現実にはならない。その永遠とも言える道のりにあって、[[ハッカー文化の伝道師|ハッカー文化の伝道師たち]]の仕事は、ソフトウェアの世界から始まったひとつの希望なのである。
(了)
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