# ビジネスを持ち込まれるつらさ
## インターネットのUXが悪くなってきた
かつてビジネスは企業だけが興せるものだったが、今や企業も新たな市場を開拓したが故に、我々消費者もビジネスに参加しやすくなった。小金稼ぎできる機会は増えたことは喜ばしいものの、なんにでもビジネスを持ち込まれるようになってしまった。最近はSNSや各種サービス、生成AIの普及などにより節操のなさに拍車がかかり、ある一線を超えたようにも感じる。
SNSを見れば認証バッジをつけたインフルエンサーの強火の投稿に扇動される人々を見かけるし、謎のご意見番が業界の総意みたいなことを発信して別の総意と宗教戦争を始めている。少し指を滑らせて画面をスクロールすれば、次々広告は出てくるし、企業の広告用アカウントだらけだ。肌に謎のテカりがある実在しないエッチな女の子は次から次へと現れるし、サロンに誘導してくるITコンサルタントは後を絶たない。マッチングアプリでは自称医師の数が実際の医師の数を超えたという話も聞く。
うんざりとした気持ちでブログやポータルサイトを見れば、ページを開く前に広告を見させられ、肝心のコンテンツも広告にまみれている。物価上昇で食品の内容量が減っているにも関わらず広告だけは増量している。
ポータルサイトを見れば、転載が繰り返された何次情報かわからない質の悪い情報が転がっているし、人間が書いたのかどうか怪しい記事を読まされ、仕舞いには私たちと一緒に働きませんか?と来る。ここはお前の求人サイトではない。
## 嫌なら金を払え
ここまでビジネスに対する文句をつらつらと書いてきたが、ビジネス自体は悪ではない。労働をして、その対価を得て、納税をすることがこの法治国家で生きるために必要なことだからだ。
しかし、興味もないのに他人のビジネスに巻き込まれて、それがオプトアウトできない、あるいはオプトアウトするには課金が必要というのは度し難い。これは「さらに便利にするために課金する」という状況と似ているようで異なる。
前者は負の体験を与えておいて元に戻すには金を払えと言っているので反感を買いやすいが、後者は普通の経験を与えておいてさらに便利にするには金を払えと言っているので前向きだ。
しかし悲しいかな、金を落とすのは前者だろう。もはやこれまでの普通に価値が生まれる時代になったのだ。多くのソーシャルゲームは後者のビジネスモデルをとっているが、ほとんど無課金で遊べるし、それで十分なので、提供されるコンテンツに魅力がなければそこで終わってしまう。
# 個人サイトに戻りたい
## SNSで消耗し続ける私たち
そんなこともあって、かつて個人サイトがたくさんあった頃に戻りたいとも感じることが多くなってきた。いろいろ理由を考えてみたが、一番に思いついたのは「適切な距離感」と「自由度の高さ」だ。
便利なプラットフォームが次々と現れて、我々は面倒ごとに責任を追わなくてよくなってきた。しかし、その代償としてプラットフォームに縛られてしまい、求めていないことに対して向き合わないといけなくなった。
個人サイトにあった混沌時代のルールは消滅し、統合された坩堝の中で正義を戦わせあう蠱毒となっている。本来は距離を保てるものだったのに、ひとつに押し込められたので、お互いに無視できなくなってしまった。いいねが多いほうが勝ち?ここは法治国家だぞ。
## ディレクトリ型検索はひとつの答えかも
昨今はハック的なSEO対策が蔓延っていて、コンテンツの良し悪しではなく、いかに検索エンジンのスコアを上げるか?に懸かっている。検索結果の上位に出ればアクセス数も増えて収益も上がるだろうが、みんな同じことを考えるので、終わりのない戦いに身を投じている。ああ無情。
かつてYahoo!を代表とするディレクトリ型検索はGoogleのロボット型検索に負けて姿を消したが、個人的にはひっそりとこれが復活することを望んでいる。そこではビジネスの話はなく、みんなが趣味のことで楽しく交流でき、情報の信頼性を担保するインターネットコミュニティが形成されていて欲しい。
ただ、これはディストピア的な要素も含んでおり、ここに参加する人たちは善人であることが求められる。ひとたび検閲に引っ掛かれば、近年の生成AI画像騒動のように犯罪者のごとく扱われて社会的立場を失う。あるいは言論統制だと指摘する人が現れてコミュニティがギスギスしてくる。お前は誰かを叩ければそれでいいのか。みんなが精神的に未熟であればあるほど事態はこじれて破滅に向かうだろう。ナムアミダブツ!
# ビジネスと個人の居場所を探る旅
ここまで私が考えていることを書いてきたが、現状こうなっていることは事実ではあるので受け止めるほかない。しかし、許されるのであれば、かつてみんなが楽しくやっていたディレクトリ型ポータルサイトやウェブリングの再来があってもいいのではないだろうか。
もしかしたら同じことを考えている人がいて、そのうちこうした動きが同時多発的に生まれてくるのかもしれない。